テック業界で「学位不問」が広がる一方で

米国のスタートアップ採用市場では、ここ数年明確なトレンド変化が起きています。2023年頃から、多くのテック企業や高成長スタートアップが 従来の学士号取得要件を廃止する 動きを強めています。(出典)

代わりに企業が重視し始めたのは、個人プロジェクト、個人サイト、「自分が最も誇りに思うこと」といった、実際の成果物や自主性を示す指標です。いわば「やる気のある自走型人材」を見極めるという、より実践的なアプローチへのシフトが起きていました。

テック業界が「紙の資格」から「実行能力の証明」へ軸足を移していた矢先、ある企業は逆方向に走っていました。

ところが、Y Combinator の求人ポータルで見かけた ETL ツール企業の採用情報には、衝撃的な記述がありました。求人票の末尾で、SAT スコア(米国の大学入試試験スコア)の提出を要求していたのです。

これは一見、非常に奇妙に映ります。なぜなら、この要求は前述のトレンドと完全に逆行しているうえに、数十年前の自己報告型テストスコアという、検証不可能で古い情報に依存しているからです。

認知能力テストは最適な予測指標か

SAT スコアを採用基準に使う背景には、それなりの学術的根拠があります。認知能力は職業上の成功と正の相関があることが知られており、理論上は認知能力が高い人材ほど事業成功に貢献するというロジックです。

しかし、 数十年前の個人的テストスコアに依存することの問題点は、圧倒的に大きい です。

採用担当者が直面する複数の課題があります。

  • 時点の問題:17歳時点での成績から、現在の能力は推測できない
  • 試験受験時の環境差:初受験か5回目か、家庭が安定していたか、その前夜に個人的な危機を経験していなかったか。同じ認知能力を持つ2人の候補者でも、大きく異なるスコアを取得している可能性がある
  • 検証不可能性:自己報告であり、実際のスコアは確認できない
  • 時間経過による陳腐化:10年以上前のテストが現在の能力を反映しているという保証はない

こうした疑問から、業界内では「これは本当に認知能力を測るテストなのか、それとも『指示に従うかどうか』という適応度を試す罠質問なのか」という議論さえ生まれています。

採用評価方法の歴史的背景

テック採用の「最良実践」がどのように形作られてきたかを理解することで、このトレンド転換の意義が見えてきます。

採用査定の近代化は、第一次世界大戦中の米国陸軍まで遡ります。(出典)

時期 方法 背景・特徴
1917年 陸軍アルファ・ベータテスト 150万人の新兵を短時間で配置。識字能力別に2つの認知テストを開発
1940年代 アセスメントセンター スパイ選抜に使用。シミュレーションと複数評者による3日間プログラム
1950年代 AT&T縦断研究 アセスメントセンターの有効性を検証。中程度の予測力を確認
1998年まで 認知テスト SAT や IQ テストを含む認知テストが「最強の予測因子」と考えられていた
2022年以降 構造化面接・多面的評価 Sackett らが認知テスト単独の優位性に疑問を提示

採用評価の「常識」は、実は数十年単位で塗り替わっています。

興味深いことに、1998年の評価では認知テスト(SAT を含む)が最強の予測指標とされていました。しかし2022年、Sackett らの研究は 構造化面接と複数の評価方法の組み合わせが、認知テスト単独よりも優れた予測力を持つ ことを主張しています。(出典)

つまり、「SAT スコアを要求する」という慣行は、既に業界内では古い考え方が主流になりつつある段階で、逆向きの采配を示す企業が現れたわけです。

実践的な採用評価の流れ

現在、人事や採用責任者が参考にすべき根拠が明確になってきています。

有効性が認められている評価方法:

  • 構造化面接(質問内容を統一し、評者の恣意性を減らす)
  • 職務サンプル試験(実際に近いタスクを遂行させる)
  • 人格評価(特に誠実性が職業成功と相関)
  • 複数評者による多面評価(単一の視点に依存しない)

一方、認知テスト単独での有効性は減少傾向 です。これは、現代の職務が単なる「考える能力」だけではなく、協働・適応・創造性など多面的なスキルを必要としているためです。

エンジニアを採用する場合も、GitHub リポジトリ、個人プロジェクト、オープンソース貢献といった「現在の実行能力の証拠」の方が、数十年前のテストスコアよりもはるかに信頼性が高いことは、皆さんの直感と一致するのではないでしょうか。

なぜ SAT スコアを求め続けるのか

このような歴史背景を踏まえると、今回の事例は疑問だらけです。考えられる可能性は主に2つです。

  1. 学術的知識の遅延:採用担当者が 1998年の「認知テストが最強」という古い知見に依存している
  2. コンプライアンステスト:奇妙な要求に応じるかどうか、適応度を見ている

いずれにせよ、 応募者の側から見れば、この要件に応じるメリットは限定的 です。もし貴社が採用側であれば、より実践的な方法(コーディングテスト、設計課題、ポートフォリオレビュー)への投資を強く推奨します。応募者側であれば、このような評価方法を採用する企業の人事哲学を慎重に検討する価値があります。