発見された「偽物」サイト—元の作品がまるごと転載されている
2026年6月上旬、米オンラインコミュニティ「MetaFilter」のメンバーが、あるウェブサイトへのリンクを投稿しました。それは「The Dictionary of Obscure Sorrows」(暗い感情の辞書)という、ジョン・コーニグ氏が約10年間をかけて作り上げたプロジェクトの新しいサイトに見えました。
見た目は洗練された出版社の公式サイトそのもの。著者の経歴、プレスリリース、Amazon への購入リンクまで完備されていました。
しかし、最も奇妙な点は、原著の全文テキスト—800 語の序文から 311 個のすべての造語とその定義、語源、エッセイまでが丸ごと掲載されていたことです。
ただし、コーニグ氏と他のアーティストが手作業で制作したオリジナルのフォトコラージュイラストは消されていました。代わりに、各造語には DALL-E 2 で生成された AI 画像が付けられていたのです。AI 生成画像に特有の歪みやノイズが目立つものがほとんどでした。
サイトトップには「AI を使ってあなた自身の造語を生成してください。あなたの暗い感情に声を与えましょう!」というバナーが掲げられており、ユーザーが感情を説明すると OpenAI の GPT-4 が新しい造語、語源、定義を生成し、AI アートとともに「ユーザー生成の暗い感情」ギャラリーに追加される仕組みになっていました。
記事執筆者が気づいた決定的な違いがあります。
| 項目 | オリジナル | 新サイト |
|---|---|---|
| ドメイン | dictionaryofobscuresorrows.com | thedictionaryofobscuresorrows.com |
| プラットフォーム | Tumblr | 独立したウェブサイト |
| イラスト | 手作業のフォトコラージュ | DALL-E 2 生成画像 |
| 造語生成 | 著者のみ | AI(ユーザー可) |
ドメインが違うのです。オリジナルは「dictionaryofobscuresorrows.com」でしたが、新サイトは「thedictionary...」と「the」が入っていました。
「sonder」から始まった10年—コーニグ氏の本当のプロジェクト
2009 年、ジョン・コーニグ氏は Tumblr で「The Dictionary of Obscure Sorrows」を立ち上げました。「私たちが感じているが、言葉にできない感情を表現する造語の辞書を作る」というコンセプトです。
2013 年には人気の動画エッセイシリーズへと拡大し、その中から誕生した造語「sonder」は爆発的な広がりを見せました。
sonder とは、「通りすがりの他人も、あなた自身と同じくらい複雑で豊かな人生を送っている」という気づきのこと。Dictionary.com や Merriam-Webster にも登録され、今や日常会話で使われるまでになっています。
コーニグ氏の他の造語も広く知られるようになりました。
- anemoia:訪れたことがない時代や場所への懐かしさ
- vellichor:古い本屋で感じる奇妙な郷愁
- monachopsis:世界に場所がないという微妙で持続的な感覚
「sonder」の成功は特に顕著です。音楽バンド、Airbnb のライバルを目指したスタートアップ、コンサルティング企業から VC ファンド、コーヒーショップから大麻店まで、数えきれないほどの企業や事業が「Sonder」という名前を採用しました。執筆者の自宅からわずか 2 マイル(約 3.2 キロ)の場所にも、同名のバーがあるほどです。
この成功がコーニグ氏に Simon & Schuster との出版契約をもたらし、2021 年 11 月にリリースされた書籍は New York Times のベストセラーリストに登録されました。
なぜこんなことが起きたのか—AI と著作権の衝突
約 2 年後の 2023 年 8 月頃、新しい Dictionary of Obscure Sorrows ウェブサイトが静かにローンチされました。注目すべき点は、公式 Tumblr ページやコーニグ氏の SNS からは一切言及されていないということです。
コーニグ氏の本来の使命は、自身の言葉で言えば「人間であることの根本的な奇妙さを浮き彫りにする」ことでした。
それなのに、この新サイトでは LLM(大規模言語モデル)を使って新しい造語と定義を生成するよう人々に勧めている。これは非常に矛盾しています。
LLM は膨大な人間の著作を学習して訓練されていますが、「人間であることが何を意味するのか」を理解することはできません。言い換えれば、コーニグ氏の本来のビジョン—人間の感情の複雑さと真正性を探求することと、AI 生成コンテンツの推し進めは根本的に相容れないのです。
記事執筆者(Waxy.org の Andy Baio 氏)は直接コーニグ氏に連絡を取り、このサイトに関与しているかどうかを確認しようとしました。しかし、執筆時点で回答は得られていません。
現在のところ、このサイトがコーニグ氏の公式なものなのか、それとも無許可のファンサイトやスキャム的なものなのかは明確ではありません。ただ、以下のいずれかの可能性が考えられます。
- 無許可での著作物転載(著作権侵害)
- フィッシング目的のなりすまし
- コーニグ氏本人による実験的な試み(ただし、不自然さから可能性は低い)
開発者・エンジニアが直面する現実
この事件が示すのは、AI 時代における「创作物の真正性」と「著作権」の問題の深刻さです。
コード開発の世界でも同じ課題があります。GitHub Copilot や Claude Code のようなコーディング支援 AI は、膨大なオープンソースコードを学習しており、生成されたコードの出所が曖昧になることがあります。エンジニアの方々が自社製品に組み込む際は、ライセンス違反のリスクを念頭に置く必要があります。
同様に、このサイトのように大規模な著作物が無断で AI 学習データとして使用され、AI で再生成される可能性も高まっています。
今後の課題—真正性と信頼をどう守るか
この事件から読み取れるのは、AI 時代における「オリジナルの証明」がいかに重要かということです。
DNS、SSL 証明書、デジタル署名など、技術的な認証手段はありますが、ユーザー側の警戒心も不可欠です。見た目が整っているサイトでも、ドメインが少しずつ異なっていないか、公式な告知がないのに急に AI 機能が追加されていないか、そうした違和感をキャッチすることが重要になっています。
Also 、出版社や作家、アーティストにとっては、自作品の AI 学習への同意を明示的に管理するメカニズムの整備が急務です。現在、多くの法的枠組みがこの問題に追いついていないのが現状です。
コーニグ氏がこのサイトに対してどう対応するのかは、今後の「AI と著作権」の判例形成にも影響を与えるでしょう。